御文章の読み間違いというのは、やはりありますね。
先日もある方と話をしていたら、
「十人も、百人も、みな助かると、言われていますよね」
と自信もって言われます。どこにですか、と尋ねると
「御文章ですよ。十人は十人ながら、百人は百人ながら、
みな浄土に往生すべきこと、更に疑いなし、とあるでしょう」
と、暗記しておられます。
「その前には、何と書いてありますか」
と言って見てもらいましたら、ちゃんと、
「一念の信心、定まらんともがらは、十人は十人ながら・・・」
と書かれています。
信心決定した方は、みな助かる、と言われているのであって
信心決定していない人は、そうではありません。
「あらーーっ」と、ビックリされていました。
しっかりと、教えを聞かせていただかないと、
とんでもない聞き間違いをする、という一つの例ですね。
「死んだら、みんな極楽だろう」
そんな誤解が、広まっています。
それでは、この世で、信心決定まで、求めようという心は起きてきません。
当然ながら、真剣に聞法しよう、とは思わないでしょう。
正しく教えを聞き、お聖教を拝読することが、大切ですね。
先日もある方と話をしていたら、
「十人も、百人も、みな助かると、言われていますよね」
と自信もって言われます。どこにですか、と尋ねると
「御文章ですよ。十人は十人ながら、百人は百人ながら、
みな浄土に往生すべきこと、更に疑いなし、とあるでしょう」
と、暗記しておられます。
「その前には、何と書いてありますか」
と言って見てもらいましたら、ちゃんと、
「一念の信心、定まらんともがらは、十人は十人ながら・・・」
と書かれています。
信心決定した方は、みな助かる、と言われているのであって
信心決定していない人は、そうではありません。
「あらーーっ」と、ビックリされていました。
しっかりと、教えを聞かせていただかないと、
とんでもない聞き間違いをする、という一つの例ですね。
「死んだら、みんな極楽だろう」
そんな誤解が、広まっています。
それでは、この世で、信心決定まで、求めようという心は起きてきません。
当然ながら、真剣に聞法しよう、とは思わないでしょう。
正しく教えを聞き、お聖教を拝読することが、大切ですね。
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